核問題は@軍事的側面Aエネルギー政策的側面の2つから検討することが出来るが、日本ではそれぞれが別の議論対象とされてきた気がする。しかしあえて私はこれを同じ土俵で論じてみたい。
日本の21世紀の核政策が今年、決まる、といっても過言ではない。ハーグでの「勧告的意見」、CTBT締結、一方では新潟県巻町での史上初の原発立地に関する住民投票など、核の運命を決める出来事が国内外で次々と起こっている。
そもそも、とてつもないパワーをもつ核を使用することが、何故反対されるのであろうか。それは、言うまでもなく、とてつもなく大きなパワーゆえの「危険性」があるからである。つまり核は、軍事用であれエネルギー用であれ、諸刃の剣であることは間違いない。ここで核に対する2つの考え方が生まれる。すなわち、「危険」だから使わないでおこう、という考え方と、「危険」を減らして有効利用しようという考え方である。
危険が減るのであれば有効利用していいであろう。しかし、問題は2つある。1つは危険性は人類に影響のない程度に減少しているか、ということで、もう1つが本当に有効利用ができるのか、ということである。
第1の点についてまず考えよう。これは、2つの視点から考えられる。@危険発生の回避A万が一の場合の危険増大回避、の2つの対策が万全であるかどうかを検討してみたい。
危険発生回避に関しては、日本は今のところ大きな問題はない、なぜなら原発では大きな放射能漏れ事故は発生していないからだ。また、日本は米国の核抑止力に依存した結果、核が打ち込まれる危険性についても低い程度に抑えていると思われる。北朝鮮の問題を口にする人がいるが、そもそも「同胞」を見殺しにするとは考えにくい。
ただ、問題は発生時の被害増大の回避、に関する点である。原発事故の恐ろしさ以上にそれを露呈してしまったのが、「もんじゅ」の事故であろう。高速増殖炉「もんじゅ」は、昨年、ナトリウム漏れ事故を起こしたのだが、その情報公開のずさんさは皆の目にしたとおりである。事故隠しをやられたのでは、@の対策が過去本当に万全であったのかさえ疑わしくなってしまう(もしかしたらどこかで大きな原発事故があったのかもしれない、と考えることもできるからだ)。そして、この事故に関していろいろ調べていると、本当に被害増大をくい止める意思が政府にないことが明白になってくると同時に、危険性が十分に低いかどうかも疑いたくなってくるのである。
まず私が驚いたのは、原発事故発生時の、福井県の国道に関する対策である。県外に通じる道はすべて封鎖するという。これは1つには危険地帯に県外の人が立ち入らないようにするための対策であるが、それは同時に県内の人が県外に逃げることを不可能にするという意味も持つのである。そもそも国道なんぞ封鎖しなくても、原発事故の情報が公開されれば、隣県の人が福井県に立ち入るなんて考えられない。であるから、どう考えても事故の際には福井県民を外に出したくない、つまり、事故が発生しても極力その被害を外に伝えたくないという風にしか考えられないのである。
さらに、福井県の小学生が「ヨード剤」をもって写真に写っているところがこの間の「週刊現代」に掲載され、私にショックを与えた。ヨード剤とは、放射能の被害による白血病等の防止のための薬なのだが、これを飲ませているということは、子供にとっては、普段から十分に危険な程度の放射能の放出があるということではないのだろうか。
こうしていくと、危険性が抑えられている、とも考えられなくなってくる。しかしそれでも核を使うのは何故であろうか。そけほどまで有効利用出来るというのだろうか。
まず検討したいのはコストである。原子力発電所は40年で寿命がつきる。発電の結果発生した放射性物質は、数百万年の間、危険な放射能を発生させる。その結果、数百万年もの間、放射性物質を管理しなければならない。ここで単純な計算をしてみよう。管理必要年数をかなり短くみて100万年、1年間の核物質生産量を100とすると、100万年後に日本に存在する核物質料は100000000ということになる。原子力発電を始めてまだ数十年であるから、日本に現在存在する核廃棄物の量は同じ計算でいけば1000くらいであろうか。果たして今の1万倍の放射性物質を管理するコストは?またそもそも管理可能なのであろうか?
原発がコスト高である、しかもそのコストは他の発電方法と違い、年々大きくなっていくことが確認できた。しかしそれでも原発がいい理由は、石油の枯渇による代替エネルギーに原発しかない、と考えられているからである。ところが思い出してほしい。代替エネルギーとして有力だと考えられている太陽エネルギーが現在採用されない理由を。これもコスト高であった。しかも、こっちは大量使用でコストが低下することができる発電方式である。また、最初のコストは原発より高いかもしれないが、同じように100万年後を考えるなら、どちらがコスト高かは明白であろう。つまり、原発利用は目先の利益しか考えない危険な利用法なのではないだろうか。
さて、ここまでけなされるはずの原発利用であるが、実際にはその利用率は上昇している。これは我々の生活様式の変化による、エネルギー需要の増大によるものである。これだけエネルギー需要が増大する中で、目先の利益にて電力会社が原発利用に走るのは、あながち不思議なことではない。だって電気がなければ日本は成り立たず、何百年後かに核のゴミにて経営危機となっても、国家が住専処理のように多額の「損失補填」をしてくけることは分かっているのだ。となると、我々は次世代、次次世代の首をここ数十年間、ずっとしめ続けていたのである。
・・・・ちょっと原発に偏っちゃったし、この続きが書きたいんだけど、それは次回に。とりあえず「つれづれなるままに」かいてみました。みなさんの意見を是非送ってください。なお、8/4の新潟県巻町の住民投票には注目しましょう。
投票総数 | 得票率 | |
賛成 | 7,904 | 38.55% |
反対 | 12,478 | 60.86% |
その他 | 121 | 0.59% |
この結果、巻町の笹口町長は「(原発予定地の)町有地を売らない以上、原発建設は不可能になった」と述べ、新潟県巻町での原発建設は町民の民意によって、不可能となったと言って良い。
今までの原発建設においても、常に住民の意思に反対される形で建設が進んでいったが、今回の住民投票は、原発による発電のリスクを一部の人々にだけ押しつけていく形で進んでいった従来の原子力政策そのものを否定した住民投票といえる。
また、この結果は、日本のあらゆる政策にも影響を与えるともいえる。例えば安全保障関連の政策。原発は巻町をはじめとした、大都市から離れた町村を「犠牲」にしてきたが、安保は沖縄県を犠牲にしてきた。もし同じような投票が沖縄でされたらどうするのであろうか(実はその準備が沖縄で進みつつある)。
さらに今回の投票は、日本の民主主義の前進ともとることが出来る。従来は国策に「逆らう」のはまず無理であった。泣き寝入りするしかなかった。それが今回、住民の団結によって可能となった。しかも、実力行使ではなく、きわめて平穏な形での「投票」によってだ。ヨーロッパの多くの国ではきわめて重要な政策はすべて国民投票によって決定される。日本でも、今回の投票がその萌芽となる可能性がある。他方では、それだけ今の国家と議会に信頼がないことの証明でもあるのだが・・・。
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